歴史の教科書の「イイクニ作ろう鎌倉幕府」が、いつの間にか「イイハコ作ろう鎌倉幕府」に変化していたことご存じでしょうか。
そんな鎌倉幕府を作ったのが源頼朝です。
歴史は苦手という方でも聞いたことのあるであろう超有名人、2022年の大河ドラマが「鎌倉殿の13人」ということでまた注目が集まっていることでしょう。
そんな頼朝、ドラマでは頼朝殿とかではなく「すけどの」と呼ばれていることが気になった方も多いはずです。
源頼朝が「すけどの」と呼ばれていた理由は?
源氏と平氏の戦いでまず勝ったのは平氏、そこからしばらくは「平氏であらずば人にあらず」というほどに平家が栄えるわけですが、一方で頼朝はというと伊豆に流されていました。
流罪の前に得ていた官職が「従五位下・右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)」だったわけです。
「佐けどの・すけどの」はそこから来た呼び方です。
征夷大将軍となったのが1192年のこと、このことから「イイクニ作ろう」のごろ合わせが生まれたのです。
でも若かりし頼朝はというと、挙兵してもしばらくは上洛することはなかったことから朝廷での官職には付けないままでした。
平家が滅亡し数年後、1189年にようやく上洛し権代納言・右近衛大将には任じられましたが、京都にいることが条件だったため鎌倉に戻ろうとしていた頼朝は辞任してしまうのです。
1192年に後白河法皇の制御に伴い征夷大将軍となった頼朝、京都にいることといった条件はついておらず、更には朝廷の許可を得ることなくあれこれなんでもできる権限を持つ役職だったからこそ彼は受けたのでした。
もしも鎌倉に帰れないとあれば、この役職だって受けることなかったかもしれませんね。
それとも鎌倉幕府・鎌倉時代というのが生まれなかったのでしょうか。