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宮沢賢治作『やまなし』クラムボンはなぜ死んだの?

1923年に発表された宮沢賢治作の短編童話『やまなし』について触れたいと思います。

小学6年生のときに『やまなし』を読んだといった方もいるでしょう。

作中のなかでの、「クラムボン」とはいったい何なのか?「クラムボン」はなぜ死んだのか?といった議論がされています。

多くのひとは「クラムボン」は蟹ではないか、といった説やアメンボ、更には泡、光説など様々な憶測をなされている作品になっています。

 

その宮沢賢治ワールドの中で様々な想像ができますが、「クラムボン」はなぜ死んだのか?というギモン点も挙がっています。

例を挙げてみると、このような意見がありました。

「人間である読者に理解できない認識が混ざることで、物語の世界でリアリティを高めることができるのではないでしょうか。

物語というのは、あくまでフィクションの世界です。そして主人公が人間ではない場合は人間社会と異なることは大いにあるでしょう。

その人間社会と異なる世界のリアリティというのは、人間に理解ができない超越されるものであるのかと思われます。

そのようにして童話の中で、よりリアルに描かれているのではないでしょうか。

現実世界でも、それがリアルであればあるほど表現されないこともあるし、それは語る必要がないというリアルの特性を語らないことで表面に浮き上がらせていくといったレトリックも使われます。

宮沢賢治が物語の中に入れば入るほど、「クラムボン」の存在は説明が不要なほどリアルで、この物語をひとが読むとき理解を拒絶することになるでしょう。

紙一枚隔てて、「あちら」と「こちら」を際立たせてそれが「あちら」をよりリアルに仕立てる道具になっているのかと思われます。

なので、「クラムボン」がなぜ死んだのかということは「あちら」の世界では問う必要がない必然の現実なのです。

しかし、読者は「こちら」側のひとなので、そのこちら側の世界からの問いかけには答えてくれないということです。それは永遠の課題といえるでしょう。

そのような差が物語世界により立体感を与えているのでしょうね。」

 

また、「クラムボン」を間違った解釈で読むより謎のままでいたほうが作品自体が損なわれず、永遠に美しい物語として受け継がれていくのではないか、といった意見もありました。